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平成道中膝栗毛

〜道中ヘンテコなものが盛りだくさん!〜

 

保土ヶ谷で信号待ちをしていたときに発見。

信号が青に変わり渡ろうとしたとき目に入った。横断歩道の反対側にもあるのかと思ったが、どうやら、こちら側に2つあるだけ。慌てて写真を撮り信号を見ると、再び赤に!怒、怒、怒、怒、怒でござった。

 

東海道ぶらり旅 第6話 

広重の雪の蒲原の構図に従うように街道を右に回り込むように進む。

この辺りが蒲原宿の中心である。

街道の左側が本陣の跡なのだが生憎残っていない。

その向かいには古い旅籠の構造をそのままに残した建物があった。

軒先で蜜柑を売っていた。 かといって商店ではない。

恐らくは自分の所の果樹園で採れたものを並べているのであろう。

一袋200円と表示されているが人気がない。

また代金を放り込む箱なども置かれていない。

蜜柑袋を手に持って建物の中に足を踏み入れた。

声を掛けると奥の方から老人が出てきた。

2、3質問をすると丁寧に10ほど説明をしてくれる。

ここが帳場で、これがこの家の家紋。 陶器で出来ていて何と天井に付いている。

もともとはこの家の持ち主ではなかったという。

明治になって鉄道が敷かれ旅人がこの宿場を素通りするようになると、ここを手放し横浜に

移って行ったそうである。

今でも宿をやっているのですかと質問したところ、ただの民家であるとのことだった。

ただ、小学校の授業の一環でここを見学に来ると言っていた。

ボランティアで博物館をやっているようなものである。

昭和30年ころ裏山から撮ったという写真を見せてくれた。

木造の平屋建てのような家屋が立ち並び幕末の写真だと言われても違いが分からない

ようにも思われた。

 

この建物(旅籠泉屋)の左半分が鈴木さん宅。

現在は煙草屋を細々と経営するのみ。

嘗ての持ち主からここを買い取りここに

住んでいるそうである。

 

 

 

嘗ての旅籠泉屋の家紋

陶器で出来ていて天井に

取り付けてある。

この様なものは大変珍しい。

 

 

下の写真はこの家の

ご主人。

大変親切に丁寧に説明を

してくれた。

 

東海道ぶらり旅 箸休め

東海道ぶらり旅は、まだ蒲原宿でうろうろしていますが、実際には

見附宿(磐田)まで到達しています。

小出しにしてページをかせごうというセコイ発想のせいであります。

今までは日帰りで出かけていましたが、普通列車での移動ですので

片道4時間以上かかるようになってしまいました。

前回は朝5時25分頃自宅を出て、現地到着が9時40分でした。

帰りは更に30分ほど所要時間が増えます。

西に進んでいるので当然ですが。

そこで4月2日から泊りがけで出かけることとあいないました。

今回はとりあえず宮宿(熱田)をいっきに目指します。

まさかにゃごやまで歩くとは思ってなかったがや。

もちろんセコく小出しにしますのでにゃごやは相当先での紹介に

なりますが。

4日間歩いて5日目に各駅停車でにゃごやから戻ってくるつもりです。

もちろん熱海で途中下車して駅前温泉に立ち寄りますよ。

帰宅後、蒲原宿パート2をお届けしますであります!

 

ケロリン軍曹三世

 

 

平成版東海道中膝栗毛。 乞うご期待!

 

連続滑稽小説「たぬ記」を開始しました

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東海道ぶらり旅 第5話

これは3月6日のお話である。

 

1月6日から中断していた膝栗毛を3月から再開しようと思っていたところ、2月末に雪が降り、その後も天気が

あまりよろしくない。 雨量を示すために玉ねぎをフェンスの上に置いてみたが、一体なんのこっちゃ?

そんなことをしても降雨量が分かるわけではない。 無駄な努力は休むに似たりとはよく言ったもので、おかげで

すっかりと出発が遅れてしまった。 3月6日も週刊予報では雨の筈だったのだが前日の夕刊では曇りのち晴れに変わっていた。 午後10時半ころに新聞を見ていて気づき奇声をあげ慌てて出発の準備に取り掛かった。

 

翌朝午前5時30分自宅を出る際に天を見上げた。 今にも泣き出しそうな赤子のようである。

湘南モノレールの深沢駅ホームで頬に微かに雨粒を感じた。

午前6時4分大船駅から静岡行普通列車に乗り込む。 この時はすでに霧雨になっていた。

昨晩の睡眠不足がたたり、うつらうつらというのが正しいのか、うとうとというのが正しいのか知らないが

すぐに意識を失った。 まるで石礫を投げつけたように激しく車窓に叩きつける雨脚の音で目が覚めた。

このとき列車は熱海駅に停車中であった。

「ばかやろう、朝日新聞!」僕は心の中で無責任な新聞社を罵った。

土砂降りの光景を目にし気分は萎えに萎えた。 まるでチキンリトルになったみたいである。

午前9時30分を少し回ったころ富士駅に到着。 相変わらず雨は激しく降り続けている。

傘をさして歩いてもびしょ濡れになりそうである。 100円ショップで買ったポンチョを被りその上に

傘をさして歩き始めた。 すぐに右足の甲が痛み出した。 もう7~8か月ほど前からの持病だ。

疲労骨折かもしれないが未だ病院には行っていない。 本当に最悪の一日になりそうだ。

 

漸く雨が上がったのは富士川を渡り暫く進んだ後のことである。 駅を出て一時間ほど経過していた。

国道を歩いていて旧東海道から逸れてしまったようである。 僕はマラソンランナーのように只管目的地を

目指しているような所があり旧所・名跡の類には目もくれずに歩き続けてきたが、流石に五十三の宿場を

通過しなければならぬという気になり神奈川宿から藤沢宿までは歩き直した。

ここで宿場跡を避ける訳にはいかぬと思い旧道と思われる方向に舵をむけた。

果たしてこの道でよいのだろうか。 先は行き詰まりのようである。

犬の散歩中なのか犬から散歩してもらっているのか良くわからないが人影を見かけたので尋ねてみた。

道は間違っていないらしい。 但し行き止まりになる前に左折して高速道路の上に架かる橋を渡りなさいと丁寧におしえてくれた。 指示どおりに進むと、左側に広重の有名な絵の看板が見えてきた。 どうやら広重はこの場所からこの絵を描いたらしい。

 

江戸時代とはすっかり様子がかわってしまっている。 建物も全く違うし。。。などと考えながら先に進もうとしたとき

のことである。

やっぱり写真を撮っておこうとカメラを取り出した。 

 

そしてとったのが左側の写真である。

えっ! えっ! えっ!

僕は驚きのあまりというか感激のあまり

三回ほど叫んでしまった。

 

うそである。

だけどすっかり感心してしまった。

建物や周りの風景は変わってしまっても

この絵の構図はしっかりと生き残っていた。

天邪鬼な僕ではあるがここでは素直に感激しようと思った。

 

続く

 

東海道ぶらり旅 第4話

                          これは2月28日頃のお話である。

 

青春18きっぷ(爺も使える)は手に入れた。 また3月1日から旅を再開できると思っていたところ雪が降った。 僕は若いころからフラれることには慣れているが今回雪にフラれたのには参った。 これが根雪になってしまうと当分歩けなくなってしまう。 湘南は暖かいので積雪も大したことはないと思われがちなので僕の窮地をアピールするために写真を撮ることにした。 寒いのを我慢して猫の額ほどの庭に回り込み記念写真の撮影と相成った。 総勢1名の撮影部隊は無事仕事を終え生還を果たしたが、比較するものがなければ積雪量を訴える事が出来ないことに気付く。

 

煙草の箱などを置くと良いのだが生憎5~6年ほど前から禁煙中である。 何か適当な物はないだろうか? 何気に股間に手をやった時に閃いた。 色と言い、大きさと言いそれはまるでタヌ記のキャン玉なのか? 歌川国芳じゃあるまいし僕がそんなことをする筈がないではないか。

それにしてもまるで。。。。。 齧るとタヌ記は痛がるのだろうか? 味は白子みたいなんだろうか? 

ぐえっ! 嗚咽しそうになって我に返った。 イカン、イカンもう少しで妄想地獄に落ち込み話を脱線させるところだった。

 

この玉葱のサイズは大である。 だいたい僕のと同じくらいだろうか?

何だか説得力がないので表現を変える。 ソフトボール位の大きさである。 

これでやっと鎌倉の雪深さを理解していただけただろうか。

 

幸い雪は午後からの気温上昇により溶けたのだが、この後雨が続き出発が引き伸ばされた。

旅に出たのは3月7日になってからであった。

東海道ぶらり旅 第3話

これは2012年1月5日頃のお話である

 

年初に三島宿から蒲原宿に向けて歩いていた時のことである。

道中右を向けば常に富士山が見える以外に何もなく、おまけに飲食店の一軒も開いていない。

やがて、足の裏には親指の爪サイズの巨大な水膨れが二つも発生。 加えて、右足の甲に激痛が走った。

空腹と寒さと痛さで一人惨めに涙しながら、なおも健気に右足を引きずりながら西進していたとき

辛さを忘れるため何時ものように妄想の世界に身を浸していた。

 

エロいこととか、温泉にゆっくり浸かることを考えていれば、ケロリンやバファリンに頼らなくても

多少の痛みは我慢できるものである。

目標地点でエロチックガールがお尻を振り振りお迎えしている姿を想像したり、

帰りに熱海で途中下車して温泉に入ろうとか、そのようなことを考えていた。

ニヤニヤと薄気味の悪い笑みを湛えながら、右足を引きずる男。

さぞかしカッコいい、いや気色悪い光景である。

 

そんなことはどうでもいい。

とにかく僕の頭の中は、ゆっくりと熱海の湯の中で右足を揉み解す事で占められていた。

(噺を面白くするためにエロチックガールを登場させ読者の関心を引こうと姑息なまねをした。 謝る!)

 

この時僕は、帰りに藤沢まで切符を買って熱海で途中下車するのと、

熱海までの切符を買い熱海から先は再度切符を買いなおすのと、

どちらが安いのだろうなどと考えていた。

 

えてしてJR運賃は分割して買ったほうが安くなることがあるのだ。

 

僕が何でこんなにセコイのかというと実はビンボーだからなのである。

ハンドルネームもルンペン3世にしたいのだが、

あまりにちょこちょこ名前を変えるのでジョージ♨ユーカス校長に怒られてしまった。 

それで未だケロリン軍曹を名乗っている。

そんな訳で10円の金にも困っている僕にとっては、

ずいぶん遠くまで来てしまって大変な事になっているのだ。

老人割引切符なんかが買える人が羨ましくて仕方がない。

 

その時ふと青春18きっぷのことを思い出した。

はたして今でも存在するのだろうかとか、おっさんでも使えるのだろうか

など多く疑問は残ったが、帰宅後調べてみて不安は取り除かれた。

この切符の春の利用可能期間は3月1日から4月10日までである。 

 

結局この日はJR富士駅付近まで歩いたのだが、

続きは3月1日以降に再開すればよい。 そう思いケロリン軍曹は冬眠に入った。

 

この日僕は熱海駅前温泉に立ち寄った。 詳細は「鎌倉湯日記」でお伝えしたい。

 

東海道ぶらり旅 第2話

僕が東海道を歩き始めるきっかけになったのは、メタボ対策からだった。

一度横浜くらいまで歩いてみようと思い、鎌倉街道を下り関内に出た。

その後横浜駅まで歩いたので、きっと22~3粁くらいは歩いたのではないだろうか。

この時は東海道を歩こうなどとは微塵も思っていなかった。

ただこのことがきっかけになり、茅ヶ崎にあるスーパー銭湯まで歩いてみようという気になったのである。

 

ここは茅ヶ崎駅と平塚駅の中間地点にあったため、出来るだけ遠くへ行きたいという私の潜在的願望に

火が点いたのかも知れない。 帰りに逆方向の平塚まで歩こうという気持ちになったのである。

平塚からは小田原まで20粁強、箱根湯本までも25粁ほどである。 もっと歩いてみようという気になった。

数日後には平塚、小田原間を歩いていたのである。

 

それでもまだ東海道を歩こうという意識は芽生えていなかった。

小田原の次は湯河原、その後は熱海くらいまで歩けばついでに温泉が楽しめるなというくらいの軽い気持ちだった。

その事を迂闊にもジョージユーカス編集長に話してしまったのだ。

「箱根を越えなくてならん!」まるで業務命令で有るが如くそう決めつけられてしまった。 

 

その後川崎で見たい映画が上映中だったので、横浜、川崎間を歩いて往復したのである。

このころになると日本橋を目指すのは一種の義務に思えていたので、形を作るために川崎、日本橋間を歩いたのである。

 

この時もまだ東海道に対する拘りは全くなく日本橋から小田原まで繋がったことに単純に喜びを感じていたに過ぎなかった。

ただ、東海道とは国道1号線だと信じつつ、国道15号線を歩いていて、実はこちらが旧東海道だと知ったのをきっかけに、

出来れば旧街道を歩きたいという気持ちが芽生え始めていたのかも知れない。

 

年内に箱根越えをしておこうという気になったのも、仙石原の湯に浸かりたいという願望だった。

およそ箱根越えをやろうと言うときに仙石原へ立ち寄るとは笑止千万、箱根の地理を知らぬ故の暴挙で有ったが、

白濁したお湯に憧れ宿を取ったのだ。 夕食時に宿の人に徒歩旅行のことを話すといっそのこと京都三条大橋まで

五十三次(厳密には三条大橋は五十四次目)すべてを歩いてみたらと唆され、調子に乗ってしまったと言う訳である。

 

年が明けて三島から富士まで歩いたのだが、この頃になって東海道に対する拘りが芽生えはじめた。

鎌倉を起点にして東西に歩いたため、保土ヶ谷宿、戸塚宿を端折ってしまっていて、東海道を歩いていると

断言するには少し後ろめたさを感じるようになったからだ。

 

最近所用があって横浜に出る機会を得た。

この時夕刻まで三時間ほど余裕ができたので神奈川宿から平塚宿までの穴を埋めようと思い、

東戸塚まで歩いたところからこの話は始まった。

追って歩いた東戸塚から藤沢までは別段述べることはないのだが、戸塚の一里塚跡のところに

日本橋から十里とあり、当時の人は一日平均十里歩いたとの解説があった。

日本橋を七つ(午前四時)に出発し、品川辺りで提灯を消し、戸塚で宿を取るのが当時一般的な旅のスタイル

だったのだろう。

 

東海道ぶらり旅 第1話

僕は今、東海道を一人でぶらぶらと歩いているところである。

すでにJR富士駅の辺りまで歩いた。 

日本橋を出発して14番目の吉原宿と15番目の蒲原宿のちょうど中間地点である。

 

あと二、三十分も歩けば富士川にさしかかる筈だ。

此処まで来ればわき目も振らず遙か西方京都三条大橋を目指して突き進むべきであるが、

今日は何故か保土ヶ谷宿から戸塚宿を目指してだらだらと歩いているのである。

これには深い訳がある。 

話せば長くなってしまうので説明するのを躊躇っているところである。

 

であれば手短に書いてしまえば良いではないか。

まるで天から光が射し込んだ様に思われ目の前が開けた感じだ。 

僕の頭は冴えわたっている。 

一人悦に入っていたところ、突然頭上から神の声が聞こえた。

 

「いや、普通以下!」

怪訝に思い視線を上方60度に移動する。

二階からカミさん(神さん)が中指を立てながら侮蔑する様に私を睨み付けていた。

(我が家のリビングは吹き抜けになっているので斯様に二階を見渡せるのである。)

 

ご存知ない方のために説明しておくが、カミさんは、日本三大邪神の一つである。

多分残りの二柱は疫病神と死神であろうが、カミさん程の存在感はない。

時にはおカミさんとも呼ばれる事さえある。

八百万の神々の中でもおを付けて呼ぶ程の大物はコイツをおいて他にないのではないか。

 

 

箱根駅伝で有名な権太坂に差しかかった。 流石に息が切れ足もふらふらとし始めた。

日本橋を出発して最初の難所である。 

立ち止まり息を突こうかと思っていたところ自転車が軽々と僕を追い越していった。

背中にリュックサックを背負いながらも、途中立ち止まることなくこの坂を上りきるのが見えた。

 

僕の目にはまるでツール度フランスの英雄の様に映った。

関心していると今度はママチャリから追い越された。 

僕は腰を抜かさんばかりに驚いた。

 

これは虚言、妄想の類ではなく現実に僕の目の前で起きている事なのである。

 

あのおばさんもツール努フランスを目指して頑張っているのだろうか? 

スピードこそさほど早くはないが、サドルに腰を下ろしたまま心臓破りの坂を楽々上っていくのだ。

この事実を読者諸君に如何に伝えれば信じてもらえるのか。

一瞬僕は焦りにも似た気持ちになっていた。

 

自転車は左右にふらつくこともなく頂上めがけて進んでいく。

このおばさんただ者ではない。 中野浩一の親戚なんだろうかなどと考えていた時、

サドルの下のフレームの膨らみが目に留まった。

 

電動アシスト自転車。 はい、はい。 それなら僕も持っています。

長年風雨に晒していたために今では使いものになりませんが。。。

 

この程度の事で動揺しているようでは長い東海道の旅、この先が思いやられるに違いない。

そう思いながら、頭の悪い老人は息を切りながら坂を上り続けるのであった。

とんだツール怒フランスである。

 

蛇足ながら権太坂の名の由来は、この土地の名前を尋ねられたとき、

耳の悪い老人が自分の名前を聞かれたのかと思い権太でごぜえますと答えた。

それ以来ここは権太坂とよばれるようになったそうぢゃ。

遠い遠い昔のお話ぢゃ。。。。。

で、一体何で東海道を歩き始めたの?

それは、風呂に行くためじゃ。

老爺は的を得ない返事を繰り返すばかりである。

時間をかけ、焦らず老人から話を聞き出すことにしよう。


ここはお風呂の学校。爺さんの言っていることはあるいは的を得ているのかも知れない。

 

・・・・という訳で次回に続くのである。

 

東戸塚付近で見た富士山。

 

写真だと大したことはないが

肉眼で見ると壮大で美しい。

 

相模の国から見る富士山は

東京のそれとはちょっと違う!